最高裁判所第一小法廷 昭和55年(あ)1608号 判決 1983年6月23日
主文
本件上告を棄却する。
理由
弁護人田村公一、同佐藤博史の上告趣意第一点は、憲法三一条、三三条、三五条違反をいうが、記録によれば、本件の捜索差押手続に所論の違法は認められないとした原判決の判断は相当であるから、所論は前提を欠き、同第二点は、判例違反をいうが、原判決は所論引用の各高等裁判所判例と実質において相反する判断をしたものでないことが明らかであるから、所論は理由がない。
なお、兇器準備集合罪は、個人の生命、身体又は財産ばかりでなく、公共的な社会生活の平穏をも同様に保護法益とするものであり(最高裁昭和四四年(あ)第一四五三号同四五年一二月三日第一小法廷決定・刑集二四巻一三号一七〇七頁、同四七年(あ)第一五九号同四八年二月八日第一小法廷決定・刑集二七巻一号一頁参照)、また、同罪はいわゆる抽象的危険犯であつて、いわゆる迎撃形態の兇器準備集合罪が成立するためには、必ずしも相手方からの襲撃の蓋然性ないし切迫性が客観的状況として存在することは必要でなく、兇器準備集合の状況が社会生活の平穏を害しうる態様のものであれば足りるというべきである。
よつて、刑訴法四〇八条により、裁判官団藤重光、同谷口正孝の各補足意見があるほか、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。
裁判官団藤重光の補足意見は、次のとおりである。
本件判旨が兇器準備集合罪を抽象的危険犯として性格づけているのは、迎撃形態のばあいに相手方からの襲撃の蓋然性ないし切迫性が客観的状況として存在することを要するものではないという消極面において意味を有するばかりでなく、およそ本罪の成立要件一般の問題として、兇器の種類・数量、集合した人数、周囲の状況、等々、行為当時の具体的な要因をすべて総合的に考察判断して、その行為の規模・態様等が、定型的にみて、個人の生命・身体・財産および公共的な社会生活の平穏を害する抽象的危険を感じさせるようなものであることを要するという積極面においても、重要な意味を有するものと考える。おもうに、兇器準備集合罪の規定(刑法二〇八条ノ二)は刑法典の傷害罪の章に置かれていることもあつて、その罪質は立法当初からかならずしも明確なものとはいえなかつたが、本罪は憲法二一条の保障する集会の自由ともかかわりがあるものであるだけに、その成立要件については、解釈上、必要かつ充分なしぼりをかけることが要請されるのである。わたくしの理解によれば、本件判旨は、判旨引用の当小法廷の両決定とあいまつて、まさにこの要請にこたえるものである。(原判決が、本罪をもつて「右規定(=刑法二〇八条ノ二)の定める構成要件に該当することが性質上一般的に法益侵害の危険を生ぜしめるものと擬制されるいわゆる抽象的危険犯である」としているのは、抽象的危険犯の積極面を遺却しているかにみえる点で、すくなくとも措辞において妥当を欠くものといわなければならないであろう。)
裁判官谷口正孝の補足意見は、次のとおりである。
一所論は、兇器準備集合罪は具体的危険犯であるとし、いわゆる迎撃型の同罪の成立要件としての共同加害の目的があるというためには相手方による襲撃が発生する具体的可能性が現実に存在する必要がある、というのである。先ず、所論前段の兇器準備集合罪の性格づけについていえば、同罪が集団犯罪を取り締る作用をもつことからして運用のしかたによつては集会・結社の自由に干渉する危険のあることは否定し難いところであり、特に兇器の範囲を用法上の兇器にまでひろげて解釈している以上殊に然りというべきであろう。この点で論旨は問題の正しい一面をついているものといえる。しかし、同罪が個人的法益に対する侵害の危険のみを保護法益とするものではなく、公共的な社会生活の平穏をも保護法益とするものであることは、法廷意見に示すとおりであり、同罪の保護法益をそのように理解し、構成要件として定められた行為の態様が兇器を準備して集合することにあることを考えれば、同罪は抽象的危険犯であると解するのが正しい。論旨はすでにその前提において採用できないといわざるをえない。
二ところで、論旨は、原判決が同罪の成立要件としての共同加害の目的について、「共同加害の目的はもともと行為者の主観に属する事柄であつて、二人以上の者が共同して実現しようとする加害行為を確定的に認識し、あるいはその可能性を認識してその行為に出ようという意思があれば足りる」と判示した点をとらえて、引用の東京高裁判例と相反する判断をしたものであるという。しかし、引用の東京高裁判例も、所論の如く、共同加害の目的があるというためには客観的事実として相手方による襲撃が発生する具体的可能性ないし蓋然性がなければならないということまでを判示しているのではなく、いわゆる迎撃型の兇器準備集合罪にあつては、「行為者の認識した事情を基礎として」相手方による襲撃が発生する具体的可能性ないし蓋然性があると認められれば足りる旨を判示しているものと解されるのであつて、両者が相反する判断をしたものとはいえないのである。思うに、同罪の成立要件としての共同加害の目的は、行為者の主観に存する意図の内容をいうのであり、行為者にそのような意図があつたかどうかということは事実認定の問題としてとらえれば足りるのであるから、原判決がこの点について判示しているところは正当である。もつとも、この型の兇器準備集合罪にあつては、相手方による襲撃の発生する具体的可能性ないし蓋然性が毫も存在しない場合に共同加害の目的があつたと認定することはおよそ根拠のない無意味なことであつて、共同加害の目的の存在じたいが否定されるであろうから、その限りにおいては共同加害の目的の存在することの認定の一つの理由となることは当然であろう。
三さらに、論旨は、原判決が「本罪は所論にいう具体的危険犯ではなく、右規定(註、刑法二〇八条の二の規定)の定める構成要件に該当することが性質上一般的に法益侵害の危険性を生ぜしめるものと擬制されるいわゆる抽象的危険犯であると解するのが相当である」と判示した点が所論引用の東京高裁判例と相反する判断をしたものであると主張する。しかし、引用の東京高裁判例も同罪が具体的危険犯であるということを判示したものでないことは明らかであるから、この点においても両者が相反する判断をしたものとはとうていいいえないわけである。そして、同罪の性質については先に述べたとおりである。もつとも、私は、原判決が「兇器準備集合罪は抽象的危険犯であるから、右刑法二〇八条の二の規定の定める構成要件に該当することが性質上一般的に法益侵害の危険性を生ぜしめるものと擬制される」と判示したことには疑問をもつ。思うに、およそ法益侵害の生ずることのありえないことが明らかであるような場合にも、当該犯罪が抽象的危険犯の故をもつて、当該法条所定の行為があれば直ちに法益侵害の危険のあることが擬制されるとしてこれを処罰するということになれば、法益侵害の危険が全くない場合にまで犯罪の成立を認めることになり、犯罪の本質に反し不当であるとの非難を免れない(この点について、なお当小法廷昭和五五年一二月九日決定・刑集三四巻七号五一六頁以下の谷口補足意見参照)。しかも、本罪については、冒頭に述べたように運用のいかんによつては集会・結社の自由に干渉する危惧すら否定しえないのであるから、同罪の成立を肯定するためには行為の実質的危険性を度外視して考えることは許されない。同罪の成立するためには公共的な社会生活の平穏を侵害する危険が具体的に生ずることは必要でないが、準備された兇器の種類、数量、準備の態様等に併せて行為当時の具体的事情を勘案し右の危険が一般的に認められること(いわゆる抽象的危険が認められること)を必要とするものと考える。すなわち、迎撃型の本罪については、相手方による襲撃が発生する具体的可能性ないし蓋然性の存在は共同加害目的認定の資料たると共に、その危険が一般的に認められることは右犯罪の成立を肯定するための要件であるというべきである。
以上の次第であつて、原判決がこの点について判示するところには一部批判を免れないものがあるが、原判決もまた控訴趣意中の事実誤認の主張を排斥して、本件において行為当時革マル派による中核派に対する襲撃が発生する具体的可能性ないし蓋然性の存在したことまでも認め、準備された兇器の種類、準備の態様あるいは防禦の態様等を併せ考え、抽象的危険の存在を肯定したうえで本罪の成立を認めていると解されるのであるから、私の考えに立つても結局正当であるということになる。
いずれにしても、原判決と所論引用の東京高裁判例との間に矛盾牴触するところはなく、論旨は採用するに由ないものである。
(藤崎萬里 団藤重光 中村治朗 谷口正孝 和田誠一)
弁護人田村公一、同佐藤博史の上告趣意
第一点 <省略>
第二点 原判決の兇器準備集合罪における共同加害の目的の解釈は、最高裁判例がない場合の高等裁判所の判例に違反しており、刑事訴訟法第四〇五条三号に該当し、破棄されねばならない。
一、原判決は、
「本罪にいう共同加害の目的は、もともと行為者の主観に属する事柄であつて、二人以上の者が共同して実現しようとする加害行為を確定的に認識し、あるいはその可能性を認識してその行為に出ようという意思があれば足りるものと解されるうえに、所論にかんがみ、本罪の保護法益ないし性格について考えてみると、結局、本罪は、個人的法益たる生命、身体又は財産を保護法益とし、これに対する加害の罪の予備罪的性格のものであるばかりでなく、公共的な社会生活の平穏をも保護法益とする公共危険罪としての性格を有するものと解すべきであつて、所論のように前者の保護法益ないし性格のみを第一次的ないし主たるものとして重視し、後者のそれを第二次的ないし従たるものにすぎないとして軽視するのは相当でなく、この点に本罪を定めた刑法二〇八条の二の規定の文言を併せて検討すると、本罪は所論のいう具体的危険犯ではなく、右規定の定める構成要件に該当することが性質上一般的に法益侵害の危険性を生ぜしめるものと擬制されるいわゆる抽象的危険犯であると解するのが相当であるから、これを具体的危険犯であるとし、このことから、相手方からの襲撃の具体性ないしはその切迫性、蓋然性が客観的事実として存在することを要件とする旨主張する所論はその前提において失当であるというべきである。」
と判示する。
二、しかし、これは次の三点において驚くべき解釈である。
1 兇器準備集合における共同加害の目的を「もともと行為者の主観に属する事柄であつて、二人以上の者が共同して実現しようとする加害行為を確定的に認識し、あるいはその可能性を認識してその行為に出ようという意思があれば足りるものと解される」としていることである。
2 兇器準備集合罪の保護法益について、「本罪は、個人的法益たる生命、身体又は財産を保護法益とし、これに対する加害の罪の予備罪的性格のものであるばかりでなく、公共的な社会生活の平穏をも保護法益とする公共危険罪としての性格を有するものと解すべきであつて、所論のように、前者の保護法益ないし性格のみを第一次的ないし主たるものとして重視し、後者のそれを第二次的ないし従たるものにすぎないとして軽視するのは相当でな」いとする点である。
3 兇器準備集合罪の性格を「本罪は所論にいう具体的危険犯ではなく、右規定の定める構成要件に該当することが性質上一般的に法益侵害の危険性を生ぜしめるものと擬制されるいわゆる抽象的危険犯であると解するのが相当である」としている点である。
これは三点とも全く世上まれな暴論というべき法解釈であり、判例にも明らかに相反しているものである。
三、まず第一に共同加害目的を行為者の主観に一面化している点について。
原判決は、兇器準備集合の共同加害目的というのは純粋に行為者の主観の問題であり、客観的・具体的状況とかかわりなく、行為者が加害意志をもてば、成立するとする。しかし、客観的に、あるいは、一般社会的にみて、到底ありえないような状況のもとで、妄想的にいだいている意志でさえ、本罪の構成要件に該当するものであろうか。そういう妄想をも罰すべきというのであろうか。これは全くの誤つた解釈であるといわねばならない。
弁護人は、兇器準備集合罪の共同加害目的が成立するためには、その行為者の主観のみならず、その主観によつて共同加害行為が実現される具体的可能性、蓋然性が、絶対に必要であると考えるものである。実現可能性の全くない加害行為の意志こそ、妄想というものであるからである。従つて、迎撃形態の兇器準備集合においては、相手方の襲撃の具体的可能性、蓋然性こそ、加害行為のおこりうる具体的可能性、蓋然性であり、それがない限り、迎撃形態の兇器準備集合は成立しないものと主張してきたのである。
この点について、明確に判示した最高裁判所の判例は見あたらないと思われるが、同種事件に対する東京高等裁判所の判例が二件存在する。
(一) 昭和五一年(う)第四二四号被告人小山邦男外二名に対する兇器準備集合被告事件東京高等裁判所第三刑事部昭和五三年九月二〇日宣告の判決である。
これは、本件と同じ昭和四九年二月四日に杉並革新連盟において現行犯逮捕された事件である。
その一四丁以降に次の判示がある。
「そこで検討すると、刑法二〇八条二の一項にいわゆる兇器準備集合罪は多数の者による他人の生命、身体又は財産に対し加えられる危害を、兇器を準備する等して集合した、その予備的行為の段階で規制することによつて未然に防止しようとする法意のもので、同罪が一般の社会生活の平穏を侵害する公共危険罪的性格を併せもつとしても、主として殺傷犯、建造物・器物の損壊犯等の予備罪的性格を有することに照すと、同罪にいう共同加害の目的とは、集合した二人以上の者が共同実行の形で加害行為を実現しようとする意思と解されるところ、行為者(集合者)において、加害行為による結果の発生を積極的に意慾して行動する意思までも必要とするものではなく、加害行為による結果の発生を確定的に認識し、あるいはその発生の可能性のあることを認識してあえてその行為に出る意思があれば足り、また加害行為が相手方の行為その他の事情を条件とする場合は、その条件の成就すなわち、予想された事態が生じた時には加害行為に出ると決意することで足り(大阪高等裁判所昭和三九年八月一一日判決、下級裁判所刑事裁判例集六巻七・八号八一六頁、なお同高等裁判所昭和三九年四月一四日判決、高裁刑集一七巻二号二一九頁参照)、ただ、右の条件はもとより社会通念上通常発生が可能と認められるものでなければならないと解するのが相当であるから、行為者(集合者)において、相手方の襲撃を予想し、もし相手方から襲撃があつた場合にあえてこれを迎え撃ち、積極的に殺傷等の加害行為に出る意思がある場合には、相手方による襲撃が、行為者の認識した事情を基礎とし、一般の社会人の見地から客観的に判断し、発生する具体的可能性ないし蓋然性があると認められる限り、本罪にいう共同加害の目的があるといわなければならない。所論は、右の共同加害の目的があるとするためには相手方による襲撃の蓋然性が客観的にも事実として存在することが必要である、というのである。しかし共同加害の目的は本来行為者の主観に属することであり、その目的(意思)を抱くに至る判断の基礎となる諸事情もすべて行為者の認識した事柄であるから、相手方を迎撃する形態の兇器準備集合罪にあつては、確かに共同加害の目的も客観性の要請される構成要件の一部をなし、従つて、それに関わる相手方による襲撃の予想は、架空の、あるいは漠然としたものではなく、通常の一般人から見てもその発生の具体的可能性あるいは蓋然性があるとされるものでなければならないとしても、それは行為者がその認識したことによつて自ら判断したところに従うのほかなく、それが被告人の認識した事情の下で一般人の見地からする評価も異なるときは錯誤の問題として共同加害の目的(意思)を認めえない場合も生ずると解せられ、以上の点から共同加害の目的が相手方の襲撃の蓋然性が事実として客観的に存在することにかかるとする所論は採用できない。ところで原判決のこの点についての説示の趣旨は必ずしも明白ではないが、若し原判決が右の相手方による襲撃の蓋然性を行為者の主観のみによる判断に委ねる趣旨であるとすれば、それは誤りであるといわなければならない。」
判例の趣旨は極めて明快であり、「若し原判決が右の相手方による襲撃の蓋然性を行為者の主観のみによる判断に委ねる趣旨であるとすれば、それは誤りであるといわなければならない」と、本件原判決のような考え方を批判しているのである。
(二) 昭和五二年(う)第一二四〇号被告人水谷保孝外二名に対する兇器準備集合被告事件東京高等裁判所第六刑事部昭和五四年九月一三日宣告の判決である。
これも本件と同じく昭和四九年二月四日の第一前進社における事件である。
この五丁に次の判示がある。
「刑法二〇八条の二の第一項にいわゆる兇器準備集合罪が公共的な社会生活の平穏をも保護法益とするものであるとしても、同罪は主として殺傷犯、損壊犯の予備罪的性格を有するものであることに鑑みれば、同罪にいう共同加害の目的とは、集合した二人以上のものが共同実行の形で加害行為を実現しようとする意図と解せられるが、本件の如き迎撃形態の兇器準備集合罪においては、行為者において相手方の襲撃を予想し、もし相手方の襲撃のあつた折には敢えてこれを迎え撃ち、積極的に殺傷等の加害行為に出る意思があり、かつ、行為者の認識した事情を基礎とし一般の社会人の見地から客観的に判断した場合、相手方による襲撃が発生する具体的可能性ないし蓋然性が存在すると認められる限り、同罪にいう共同加害の目的があるというを妨げないものと解せられる。」
この判例も(一)と同趣旨である。共同加害目的を行為者の主観に一面化するのではなく、行為者の認識した事情を基礎とし一般の社会人の見地から客観的に判断した場合に、具体的可能性ないし蓋然性が認められる場合としているのである。
原判決は、明らかに、この点において前記二判例に相反しているといわなければならない。
四、次に、兇器準備集合罪の保護法益について。
原判決は、個人的法益と公共的な社会生活の平穏という法益を両者対等の保護法益であると判示するが、これは、これまでの判例にことごとく相反するものである。
前記二判例に言うとおり、「兇器準備集合罪が公共的な社会生活の平穏をも保護法益とするものであるとしても、同罪は主として殺傷犯、損壊犯の予備罪的性格を有するものである」というのが、これまでの判例であり、また学界の通説である。
団藤教授の「註釈刑法」にも、立法論としてはともかく、現行法の解釈としては、個人的法益の保護が主であるという趣旨の記載がある。
このように原判決の解釈は、判例に相反するものであるといわなければならない。
五、兇器準備集合罪を抽象的危険犯であるとする点について。
前記二判例の論旨からも明らかなとおり、判例は、兇器準備集合罪を具体的危険犯としているのであつて、抽象的危険犯とすることは、とんでもない暴論であるといわなければならない。
六、以上述べたとおり、原判決は、判例に相反しているものであり、破棄されなければならない。
なお、この点について、補充書をもつて、詳細に明らかにしたいと考えている。
前記二判例について、以下全文引用する。
<編注>
二(一)の判例は、高刑集三一巻三号二四二頁(判時九三六号一二九頁)登載
二(二)の判例は、東高時報三〇巻九号一二五頁(本誌四〇四号一五三頁)登載
原判決は、判時九九三号一三六号登載